今日は空手道の歴史についてお話ししたいと思っています。
空手は沖縄で生まれ、日本全国に広がっていった武道です。
沖縄がまだ琉球王国だった時代、海洋国家だった琉球では当時の日本や中国と盛んに貿易をしていました。
その中で、中国南部地方の拳法、日本の古武道、琉球にもとからあった闘争術が混ざり合い、「手(ティー)」という武術が生まれました。
余談1、中国拳法は大きく南派系と北派系に分けられます。
広い草原と硬い大地が広がっている北部では、足元を気にする必要はありません。
そのため、飛んだり跳ねたり、地面を転げまわりながら攻撃するアクロバティックな拳法が発達しました。
一方、南部は海と河、湿地帯が多く、揺れる船の上での戦いも想定しなければならなかったため、下半身をどっしりと安定させたうえで、力強い攻撃をする拳法が発達しました。(これらを知ってカンフー映画を見ると、また面白いですよ。)
海洋国家だった琉球に中国南派系の拳法が受け入れられたのも当然のことだったのかもしれません。
そのため空手道でも立ち方は非常に重要視されます。糸東流(しとうりゅう)系の「ニーパイポ(二十八歩)」という「形」には、今でも中国拳法っぽい動きが多く残っています。
話を戻します。
そうしてできた「手(ティー)」は、琉球でさらに体系化され、それぞれの場所でそれぞれの特徴を持つようになり、「首里手」「那覇手」「泊手」など地域の名を冠するようになりました。またこれらをまとめて「唐手」と呼ぶようになったと言われています。
この時代、日本の薩摩藩からの圧力で、琉球の人々は武器を持つことが許されませんでした。
そのため人々は武器を何も持たないで(空の手で)相手を制する武術を、ひそかに森の中などで練習するようになりました。そうして、自分の拳や蹴りを武器として戦う、「唐手(空手)」として発展していったと言われています。
(沖縄に残る古流派では、今でも「コン」と呼ばれる長い棒や、「サイ」と呼ばれる三又の武器を使った技が残っていますが、それらも元は農機具が原型だったようです。)
また、小国だった琉球では、大国だった日本や中国と全面的に争っても負けることは目に見えていました。だからこそ、「勝つことよりも、負けないこと」に重点を置いた、護身術として精神が育っていったのだと思います。
時代は進み、明治時代になると、薩摩藩の圧政が終わり、秘術とする必要がなくなった唐手を日本全国に広めていく人たちが現れました。日本全国に広まっていく中で様々な流派が生まれ、名前が「空手」と変わっていきます。
そして大正時代。日本古武道展覧会で空手の形が演武されるなどして、剣道や柔道と並ぶ日本の正当な武道として認められていったのでした。
余談2、空手といえば白い道着を思い浮かべる方も多いと思いますが、戦前までは空手はふんどし一丁で行うのが正当でした。しかし、戦争がはじまり、天皇が全国の武道家を集めて日本の武術力をご覧になる場が開かれました。
この時、出席した空手家が、いざ形を演武しようとふんどし一丁になろうとすると、横に立っていた柔道家が
「さすがに陛下の前でパンイチはまずいんちゃう? 俺の道着貸してやるわ」と言ったかどうかは分かりませんが、結局柔道の道着を着て形を演武したそうです。
それ以来、空手も白い道着を着て行うようになり、柔道の真似をして段をとったら黒帯を締めるようになったんだとか…
※空手の歴史・流派については調べれば調べるほど「諸説」がありすぎるので、あくまで私の知る一説として、ご理解ください。